私とコンピュータ

私はコンピュータが大好きだ。私がコンピュータを意識したのは、1983年、大学1年のとき、確か週刊プレーボーイの巻頭にあった「マッキントッシュ上陸」というような記事だったと記憶している。当時、私はバスケットボール部に所属していて、試合のときにつけるスコアーブック(誰がこの時間にシュートを決めたとか、反則をしたとかの試合の記録)をコンピュータでつけたら、蓄積されたデータを練習や試合に活かせると思っていた。でも私はそれから、コンピュータに触れることなく社会人になった。

私が社会人になったころワープロ(ワードプロセッサの略)が流行った。私が就職したのは食品メーカーの営業部で、主な得意先は百貨店だった。重大な仕事の一つがお中元、お歳暮ギフトの見積作成だった。私は先輩に見習って、会社のロゴマークが入ったカーボン複写の見積書に20アイテムくらいの商品リストを得意先ごとに手書きで作った。見積書の商品リストは全て同じで、得意先名と納入価格だけが違っていた。細かい商品内容を書くのが一苦労だった。決められた枠に収めて書くため、何度も鉛筆を削って尖がらせて小さい字で書いた。間違えると、また最初からやり直しだった。それはまるで修行のようだった。

見るからに体育会系の営業マンがそんな作業をしているころ、新しもの好きの先輩がワープロを買った。彼はワープロで見積書を作ろうとしていた。ワープロで手書き用の見積書と同じフォーマット(表)を作り、手書きと同じように商品リストをワープロの画面に作った。鉛筆を尖らせて書いていた商品内容は、枠を広げ文字のサイズを小さくしてあっさり作った。ここからが圧巻だった。1つ見積書ができれば、後はコピーして、得意先名を変更するだけだった。この人ずるいなーと思たが、この一件から“この人デキる”と一目を置くようになった。

ワープロの次は表計算ソフトだった。マルチプランというソフトだった。毎月ある営業会議に提出する売上報告をあらかじめ用意された表計算ソフトで作るようになった。会社のホストコンピュータはIBM社のAS400だった。毎月、AS400からスプロケットの連続用紙にプリントアウトされた売上実績が、電算室から営業部に送られてくる。

その厚さ10cmの束から、自分の担当の店を見つけ、手書きの表に商品ごとに売上や比率を電卓で計算して報告していた。それをマルチプランでやるようになった。マルチプランは今のエクセルと同じで、決められたマスに売上金額を入力すると、必要な計算は瞬時にやってくれる。手書きと電卓を使わなくていいので、作業は早くなった。でも営業成績がよくなるものではなかった。

私が社会人になった1980年後半から1990年前半は、他にもポケットベル、シャープの電子手帳など新しい仕事の道具が増えだしたころだった。そんなとき、西研究所・西順一郎先生が会社にMG(マネジメントゲーム)とマイツール(コンピュータ)を教えに来てくださった。一年契約でもう西先生の研修もあと2回で終わるというころ、私も運よく西先生からMGとマイツールを教えてもらう機会を得た。初めてのMGは成績が良くなかったので面白いとは思わなかったが、マイツールは面白かった。ワープロでもなく、AS400でもマルチプランでもない、私が欲しかったのはこれだ!とそのとき強く思った。マイツールなら私にも使えると思えた。大学1年のとき見た雑誌の記事を思い出した。

遊びも仕事も上手く行かない、世の中わからないことだらけ、そんなこんなで悶々としているとき、大学時代の友人の野口純雄氏と久しぶりに会った。野口と私は大学1年のとき同じクラスで、苗字が同じ”な行”なので席次が私の次だった。彼は学校の近くに下宿していて私はよく入り浸っていた。彼は私に会うなり「中島、マイツールって知っているか?」と言ってきた。「中島、マイツールを絶対にやった方がいいぞ」と野口は一晩中繰り返した。野口にしては珍しく興奮気味だった。そんなとき、御徒町にある東京営業所に本社からマイツールが送られて来た。私が自由に使えるマイツールだった。

マイツールは、画面と本体とキーボードが一体のラップトップ型をしていた。重さは5kgあるかないくらい重く、値段はトヨタのスターレットより高かった。私はそれから、週末になるとマイツールとマニュアル一式を紙袋に詰め込み自宅に持ち帰り、マニュアルの1ページめから同じようにやっていった。マイツールと過ごす週末がしばらく続き、ついにマイツールの操作がわかるようになると、一つの壁にぶち当たった。

「どうすればマイツールを仕事に使えるようになるのだろうか」ということだった。マイツールの操作方法がわかっても仕事に活かすことができなかった。私は、マイツールをどうやって仕事に使えばいいのばかりを考えていた。でもそれは考えても答えが見つからないことだったと後でわかった。周りにはマイツールの情報がなかった。教えてくれる人もいなかった。野口に相談するしかなかった。野口のアドバイスは「東京MGに行け」の一言だった。

私は野口の言う通り東京MGに行った。セミナー会場は新宿だった。受講料は2日で4万円。こんな大金を自分に投資するのは初めてだった。絶対に元を取るという覚悟でセミナーに行くと、セミナーには全国から100人近く、それも私が初めて会うタイプの人たちばかり来ていて圧倒されっぱなしだった。一番前で西先生が使っているコンピュータはマイツールだった。セミナーにきているほとんどの人がマイツールを使っていた。野口の言った通りだった。そして私は毎月、東京MGに通うようになった。

セミナーの合間にマイツールを操作している西先生の後にそっと行って先生のマイツールの使い方をのぞき見るのが楽しかった。目の前で料理を作ってくれるコックさんのように思えた。その姿はエンターテインメントだった。帰りには会場の横にあったマイツールが何台も置いてある木原さんの事務所にお邪魔して現場で動いているマイツールを何回も見せてもらった。私はMGセミナーで西先生から配られる参加者名簿とセミナースケジュールの表が美しくひとめぼれだった。それから私は、西先生がマイツールでやっているスケジュール管理と名簿管理を真似することにした。

おかげでだんだん私はコンピュータを仕事の道具として使えるようになっていった。私が今こうしてコンピュータを生業にしていることは、私にコンピュータを教えてくれた西順一郎先生のおかげである。あれから30年が経ったけれど、私とコンピュータは今もマイツールをかかえて持ち帰ったころの週末のままのような気がする。
(文責:中島正雄)