身近なコンピュータ(3)

マイツール開発会社『イージー・コンピュータ・システム(通称:イーコス)』の社長だった荒川博邦さんが神保町に来てくれることが、最近、何回かあった。イーコスは、マイツールを開発するために荒川さんが作った会社だった。東京のど真ん中、半蔵門線の半蔵門駅を降りて少し歩いた黄色い4階建のビルにあった。マイツールの中身はイーコスが作って、売っていたのはコピーでおなじみのリコー社だった。

荒川さんは、マイツールを持ってそうそうたるメーカーにプレゼンに行って、最後にシャープとリコーが残った。コピー枚数のチェックに営業マンが定期的にお客さまのところに行く営業スタイルのリコーはコンピュータ最後発で、ただ一社、戦略的に「マイツール戦略」を採用してくれた。第一次パソコンブームが来ていた。

全て過去形なのは、リコー社は2000年10月にマイツールをフリーウエア化、つまり、マイツールの開発を止めマイツールを手放す意思決定をし、それに伴い主力商品を失ったイーコスは解散したからだった。それでもマイツールは、今でも仕事の現場で動いていて、ビジネスマンの間で使われているのだから不思議なソフトウエアではないだろうか。私の周りでも、これからマイツールを仕事に使おうと、仕事帰りに勉強に来る若いビジネスマンが何人もいる。

そんなマイツールユーザーの集まりに、開発者の荒川さんがひょっこり来て、昔の苦労話を面白おかしく話をしてくれる。浜松・天竜川出身の荒川さんは、リコーという大会社を相手に商売をしていただけあってスケールが大きい。どことなく余裕があるオーラを放ち、コンピュータの話というより、仕事のやり方、モノの考え方、立ち振る舞いを若者に教えてくれている感じだ。

インターネットもマックもウィンドウズも無い時代、事務処理のプログラミング言語といえば『COBOL(コボル)』だった。COBOLとは“COmmon Business Oriented Language”の略。この時代に先ずコンピュータにやらせたかった事務処理は、給与計算だった。COBOLはやさしい英語でプログラミングすることができたが、ただCOBOLで扱うデータは、プログラムを作るときに予め全ての桁数を決めなければならなかった。プログラムが完成してから、データ項目を増やしたり、データ項目の桁数を増やすことは、システムの大幅な修正になった。つまり変更は更に金がかかった。「コンピュータ=金がかかる」だった。

荒川さんがCOBOLのプログラマーだったころ、CMにお相撲さんが出演していた会社に給与計算システムを売った。日本全体が元気で絶好調のころだった。その会社では、毎月の給与が7桁必要な社員が出てきた。今までの毎月の給料は10万円単位で足りていたが、100万円以上をもらう社員が出現したのだ。COBOLで作られた給与計算プログラムは6桁を想定していたので、想定外のことが起こった。プログラムを変更するには時間と金がかかる。そのときのユーザーのことを考えるともどかしい経験が荒川さんの頭にいつまでも残っていた。

荒川さんは、マイツールにはいつでも瞬時に桁数を変えるコマンドを作った。「Change Format」の略で『CF』というコマンドだ。2文字のコマンドということは、仕事でよく使うコマンドということだ。『CF』コマンドが入ったマイツールを持って、あのときの会社の会長に見せに行ったが、マイツールを買ってはもらえなかった。でもそのとき想定外を作った社員は出世していた。

荒川さんはいろんな業種の仕事を232通りのコマンドにした。だから、マイツールのコマンドを組み合わせれば、マイツールで出来ない仕事はない。 マイツールは、よく“表計算ソフト”と混同される“が、マネジメントゲームの開発者・西順一郎先生はマイツールを「ワープロ感覚のデータベース言語」と言う。それは、マイツールはコマンドの組み合わせてどんな仕事も直ぐにできるからだろう。マイツールは仕事の言語なのだ。

20年前に開発が終了したプログラムを、いまだに新しいビジネスマンが使おうとするマイツール。仕事の本質は今も昔も変わらないのということではないだろうか。マイツールは仕事の本質、つまり“人間”を見て開発されていた世界稀な身近なコンピュータだからだ。マイツールが時代を超えて使われる理由はここにある。最近の荒川さんは想定内という顔をしている。(文責:中島正雄)

神保町マイツール教室で講演する荒川さん

神保町マイツール教室で講演する荒川さん